徐々に気温が下がってきて、やっと秋冬らしくなってきました。
あまりに薄着でひねりようがない夏も終わりが見えてきて、重ね着で相互の関係性をつくることができる季節がやってきます。私は、色や形の相互の関係によって意味を生み出す行為は、画家が絵を描くことにも近い創造的な行為であると思っています。ともかく、コートが着られるというだけでもうれしいものです。
今回は、洋服屋という仕事について書いてみたいと思います。
というのも、既に離れてしまったのですが、私自身が以前ファッションに関わる仕事をしていたことがあり、その中で感じたことや考えたことで、洋服に関わる仕事とはどのようなものなのか、極個人的な視点からの一部分のみにはなりますが、ご紹介できると思ったからです。
どのような職業にもその商品やサービスを提供する最終的な広い意味での消費者がいますが、ファッションにおいては顧客ということになります。そして、一般的なファッションの会社においては、顧客に届けるための具体的な場所として店舗が存在します。その店舗で最終的に商品と顧客をつなぐ存在として販売員がいます。そして、店舗に並ぶ商品を企画する商品部があります。
顧客<<<販売員<<<店舗<<<商品部
自社で、商品開発から販売まで行っている会社であれば、売上のデータはもちろん、店頭で実際に顧客と接する販売員が得る顧客の生の声を商品開発に活かすことが重要な意味を持ちます。ただ、顧客を教育するという一種啓蒙的な商品開発にこそ意味があるのではないかと思っています。そして、そのためには、情熱が必要です。服が好き、人が好き、そのような根底の思いがなければなかなか難しいものです。その点、尊敬する栗野さんのブログには愛が溢れていて、このような人はやはりファッションの世界にいるべくしているのだと感じさせてくれます。(情熱と言えば、この指揮者の音楽への情熱にも圧倒されます。非常におすすめですので、こちらからどうぞ。メンデルスゾーンの音楽も美しいです。)
情熱というと、なんだか精神論的になってしまいますが、人間がある視点(永井均的に言えば〈私〉)から離れられない以上、あらゆる出来事は〈私〉を経由して解釈されることを逃れられません。そして、その解釈の文法は本当に個人的なものでしかなく、一般的に嫌悪されるようなものであってもよきものとして受け入れることも理論上は可能なのです。私は、この恣意性に、大きな自由を見るのです。この文章での事例に引き付けて言えば、他者から見れば非常に大変な状況であっても、情熱を持っている本人にとっては乗り越えられる壁であり得るのです。解釈の文法に影響を与える要素として情熱が果たす役割の大きさを避けて通ることはできません。

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