2016年2月15日月曜日

過去の自分に出会うこと


大学1年生の春休みから、たびたび美術館に展覧会を見に出掛けています。その場で感じたこと、考えたことをノートに書いて保存しているのですが、今回、残っているもののひとつを読んでみました。非常に、驚きました。こんなことを考えていたことがあったのか!! というような、今ではすっかり頭から抜け落ちている内容が書かれているのです。見ている作品、場所、当時の読書環境、などが影響しているのだと思いますが、おもしろいので、少し長いですが、以下に引用してみます。傍線以外はすべて原文のままです。





国立新美術館 セザンヌ―パリとプロヴァンス
2012年4月29日
伊東聡

自分の意思で不自由を選ぶということは美しいことなのかもしれない。捨てられた、そのことによって消費されない(され得ない)可能性がそれゆえどんなものにもなれたはず(現在からみた過去の仮定)であったものであるために、夭折に対してと似た感情を生む。
自画像とともに何を描くかにこそ自画像の意図を読むことができそうだ。
塗り残し、多視点、平面化……、のように、セザンヌに対する前提知識を持つことで、なにを見るべきかがある程度定まり、自分なりの発見が容易になる。前提知識に縛られない自由な発想を、という声も存在すると思うが、それは幸運な例外であって、知っていることが増えれば気づきの頻度も増え、見当はずれな意見が少なくなる。知識に依るのか、それとも拠るのかという問題であり、意識的に回避できる。
《ピアノを弾く少女》。壁や床などの模様がマティスを思わせる。なぜ、少女の服は白なのか、なぜ母親らしき人物は黒とくすんだ肌色の服で編み物をしているのか、なぜピアノの奥に椅子があるのか、そして、違うものであってはいけないのかということを中心に考えてみることで見えてくるヒントがある気がする。コナン・ドイルの名探偵シャーロック・ホームズ曰く、「君は見ているだけで、観察していないのだ」ということなのかもしれない。少女のドレスの白と、ピアノの茶が、あたかも同じ平面であるように描かれている。母と妹ということになっているが、明らかに現実を描いたものではない。そこに介在する意図と、意図せざる効果を読みとることこそがやらねばならぬことだ。背景や、人物以外では模様への執着が見られるのに人物の服装がすべて無地なのはなぜか。人物を空間の模様と考えたならば、模様に模様は不要になるということかもしれない。
《林間の空き地》。粗く見えるように描かれているけれども、光の当て方の清潔さがすばらしい。欲しい。
《水の反映》。風景画だけれども、ある程度の範囲を同じ色のブロックで塗ることでキュビスムを思わせる。線が効果的に用いられている。上方の山際が大きなアクセントになっているために、具象にとどまることができているし、明瞭になっている。
《りんごとナプキン》。多視点が見られる。
《りんごとオレンジ》。もはやどこから見ているのかわからない。多視点の効果とは何だろうか。ここでは、絵が見せて示すことをやめて、文字のように記述することを行っている(たとえば、「ここにリンゴがある。」という文章では、全知の語り手の視点で記述されており、特定の主観によるものではないとともに、特定のひとつの視点を持たない。)。文学と絵画には類似点が多い。おもしろく見た者勝ちのところとか。
なぜ恋人と展覧会を見に来るのか。体験の共有ということもあるとは思うが、「視点・視線」から考えてみたい。自分が恋人と一緒にいて、親しげにささやき合うことを自分たちだけの視点から捉えるのではなく(この場合、自分に見えているのは相手だけであり、二人が一緒にいることを客観的に感じることはできない。)、他人の視点から見ることによって得られる、多くの他人の視線が自分と恋人の姿を捉えているという事実によって自分たちが経験を共有している事実をより強く感じることができることも理由のひとつではないか。二人だけの閉じた空間を他人が存在する開かれた空間と結ぶための道具としての他人の視線なのである。だから今日も道具としての他人の視線として協力することを強いられており、そこから逃れるためには見ないことしかない。意図する / 意図しないにかかわらず他人を巻き込むことができるのがひとりでは不可能な力なのだと思う。
(傍線は引用時に加えた)


「自分の意志で……」は、小林康夫さんが同じような内容を述べているのを、この2年後くらいに読んでいて、その前からそのように考えたことがあったことを、今発見して意外な気がしています。小林さんは不自由な環境の中でも自由たり得るというようなことで、そのことに強く惹かれたのですが、このような文脈があったのかもしれません。
「違うもので……」、「そこに介在する……」は、美術史家の視点から作品を見る際に忘れてはいけない事柄であり、当時は展覧会に通い始めてから1年と少し経っていることを感じさせます。美術を見ることに関しては徹底して帰納的に理解を深めてきたので効率がよくなかったはずですが、1年くらいかければこの考えまで到達することができるのですね。安心しました笑。
「多視点の効果……」では、やっとセザンヌらしいことを言っています。多数の視点からの見え方を混合することが、人間には原理的にできないわけで、セザンヌの行いを文学の地の文に引き付けて書いています。全知の語り手を神とするのは多少短絡的ではありますが、現在の私も、あなたにとって神とは何ですか、と問われれば、特定の視点を持たない存在、と答えますので、その考えが根底にあっての文章である気がします。
「他人の視点から……」は、美術館で仲のよさそうなカップルでも見たのでしょうか笑、恋人と美術館を訪れることについて書いています。自分の視点からは自分の姿を客観的に捉えることができないという前提に立って、恋人と自分を同時に把握できる他者の存在(視線)を経由して、恋人と自分が一緒に存在していることを再確認するプロセスが書かれています。ややこしいことを考えるなあ、と今では思いますが、則っている考えは明確ですし、視点の問題について興味をもって考えていたということが、ひとつ前の「多視点の効果……」からも伺えます。

いかがでしたか。というか、自分が一番驚いているのだと思いますが、考えるという行為も、量が減ると質が落ちるのでしょうし、学生時代は読書量も多く、魅力的な考えにぶつかる確率も高かったのかなと思います。魅力的な考えに出会ったときの高揚感や、またこの考えに戻ってきたなあというような感覚は、美術を見るときに得られるもので、それらを求めて展覧会に通うのだと思うのです。これが職業になればよいのですけれど、なかなか難しいです。

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