2015年11月19日木曜日

Je suis Paris.


今回は、IS(Islamic State)によるパリのテロに対する抗議として、
Facebook等でプロフィール画像にフランス国旗を載せることについて、
遅くなってしまいましたが、考えてみたいと思います。


私もFacebookで確認しましたが、
現在パリ在住の、同じ大学の建築学科に留学してきていたフランス人の友人は、

プロフィール画像にフランス国旗を重ねていました。
Facebookというのはよいのか悪いのか、友人が「いいね!」をした、
友人の友人の投稿も、設定によっては見られてしまうので、
フランスとまったく関係なさそうな人もプロフィール画像を変更しているのを見かけました。

その関係の薄さ、そしてその手軽さに対して、様々な意見があると思いますが、
私は、

人間の感受性を過信してはいないか、

と思います。

自分が経験していないことに対して、あなたは本当に心を動かされているのか。
そんな敏感な感受性を持っていたとしたら、
あなたは既に死ぬほど傷ついているのではないかと思います。

(少し前に祖母が亡くなったことは以前書きました。
父の母なのですが、葬儀の朝、父は、いつもは読まないスポーツ新聞の記事を読んでいました
(父の姉の家に行ったので、そこではスポーツ新聞を取っていたのです)。
そんな、どうでもよいことをこんなときにするのか、というか、そんなことをする意味があるのか、
一瞬、困惑しました。
けれど、人は常に悲しみ続けることができるほど強くないのだと思います。
坂口安吾は「堕落論」の中で、落ちるところまで落ちろ、落ち切るのだ、と主張しましたが、
安吾の言う落ちるところはそんなに深くはないのではないかと思っています。
人はそんなに深くまでは落ちられないのではないかと、思うのです。
その意味で、父は私よりもずっと深く傷ついていたのです。)


福島のときも同じことを考えました。
"Je suis Paris."と言ってみたり、「絆」と言ってみたり、プロフィール画像を変えたり、
外形だけをなぞる行動は、当事者から見ればただ不愉快なものなのではないでしょうか。

悲しみ続けることはできない。
生きるためには食べなければなりませんし、
そして働かなければならないでしょう。
そのように生きていくうちに、必ず記憶は風化しますし、悲しみも色褪せます。
経験した人は、プロフィール画像を見たとき、
同時に自分の中で変化してしまった悲しみを見て心を痛めるのではないかと思うのです。
経験していない人は、そこでただプロフィール画像を新たに変更するだけなのではないか。
そこにファッションとしての構造が見えてしまいます。

不謹慎ですが、
関係の薄い人がプロフィール画像にフランス国旗を重ねる行為は、
ハロウィーンと同じ構造だと思います。
ファッションとして、行うことを許可されている/行わされている、行為なのではないか。
そのようなエクスキューズがある行動は、自ら求めた行動ではないと考えています。
本来は自らの意志で行うべき行動を、流されて行っていること。
そこに、関係の薄い人がプロフィール画像にフランス国旗を重ねる行為の、
不愉快さの理由があるのだと思います。

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