2015年11月9日月曜日

平易な言葉で語ることについて ――それは優れたことなのか


わかりやすく伝える技術、というものが話題になることがあります。
難解な仕組みなどを、知識を持たない対象が理解できるように伝えることは、
たしかに、求められる技術ではあると思います。

ただ、そこには必ず内容を省略し、簡略化することが含まれてしまうと思うのです。


ある語彙を、より平易な語彙で言い換えることで理解を促進することも行われるでしょう。
枝葉の部分を切り落として、重要な根本だけを伝えることで、
円滑に進むことがほとんど、ではあると思います。
しかし、前回書いたような、文学などの分野になると、枝葉の部分が根本を包含するという、
一種逆説的な構造があると思います。

部分が全体であり、全体が部分であるような、相互に入れ子状になっている構造。
それは、自分と世界の在り方にも繋がる構造です。

そのように考えると、むやみに簡略化することは、
語る相手に対して、語る内容に対して、礼を失することになり得るのではないかと思うのです。
「まじすごい!!」をあらゆる内容に適用するのではなく、
その都度対象となる内容に寄り添うような語彙を、自分の中から取り出し、精査して並べること、
それは時間も手間もがかかるでしょう。
しかし、その繰り返しは、自ら語る内容を尊重することにも繋がるのではないでしょうか。

言葉は世界でもありますから、
世界に対して向き合っている、世界に生きている以上、
自分はこのように言葉を選択していきたい、と思っています。


(ところで、平易な言葉で語ることは優れたことなのでしょうか。
優れたことであると思います。
先に述べたように、説明能力を必要とされる場面は多いですし、
逆に、ひとつひとつ語彙を吟味した言葉が求められる場面は少ないと言えます。

また、より根本的な理由を述べるとすると、
あらゆるものは優れたものであり得るからです。
というのは、優れている/優れていない、というような価値判断には、
明示されるか否かにかかわらず、基本的にある判断基準が存在しており、
その基準は常に恣意的であるために、あらゆるものを優れたものとして認識することは可能です。
見方を変える、というものです。
同じ行為であったとしても、文脈が異なることで評価は大きく異なるのです。
よって、自分が置かれた環境の基準に自らを順応させることが評価されるために必要になります。
このためには、評価される行動を分析し、帰納的に抽出し、実際の行動に移し続けることが求められます。
これがなかなか難しいのですね。
自分は精一杯やっていても評価されない理由は分析が正確でないことに起因することが多そうです。)

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