2015年11月7日土曜日
言語が違うということは、同じ意味内容を伝えることができない
いつも見ているブログがあるのですが、
そこに、"I have so many reason to love this Barbour jacket."という一文がありまして、
直訳すれば、「このバブアーのジャケットが好きな理由は本当にたくさんある。」とでもなるのでしょう。
(もとの文章はこちらをご覧ください。)
(余談ですが、私もバブアーのビデイルを所有していますが、何度も修理に出したり、
オイルを塗りなおしたりはしていないので、色も薄いですし、これよりも随分油が抜けていて、
違うものみたいです。)
ここで、"love this jacket"と、「このジャケットが好き」では全く別種のものであると思うのです。
では、「このジャケットを愛する」ならよいか、というと、そういうわけではない。
翻訳に伴う語の選択によるものではないのです。
「正しい」訳、という次元の話ではないのです。
(ある英語に造詣が深い日本人が、"I love you."を、
日本人はそんなことは言わないのだから、「月がきれいですね。」とでも訳しておきなさい、
と言ったという話も聞きますが、
そのような文化的背景に基づいた適切な訳語の選択という話でもなく、
単純な語彙の意味内容の話でもないのです。)
"love this jacket"は、"love this jacket"でしかあり得ない、ということなのです。
たとえば、
「説得」を、「よく話して、相手に納得させること」と定義していたとしても、
「説得」した、と、「よく話して、相手に納得させ」た、では、異なる。
何が異なるのか、――文字が異なるのです。
これが会話であれば音が異なることになる。
語彙を増やすことでより重みのある内容をより少ない言葉で表現することができるようになることは、
経済的な理由から発達した能力であるかもしれませんが、
ある単語を選択すること、その単語以外を拒否すること、
ここに文学があるのではないかと思います。
谷崎潤一郎の『春琴抄』を、一語も動かせない、と表現した人がいたようですが、
そのような部分に、文学が実際に生きているのだと思います。
経済活動を行うことなしに生きることは非常に困難であり、
私自身も労働力を対価と交換して生を紡いでいるわけです。
あらゆるものを交換可能にし得る可能性を持った貨幣というシステムの存在は大きいですが、
人々はいつも交換不可能性をこそ、求めているのではないでしょうか。
そこには常に、文学の可能性もある、と感じています。
登録:
コメントの投稿 (Atom)

0 件のコメント:
コメントを投稿