2016年4月30日土曜日

古着を着ること

私は古着を着ることが多いです。

 

いわゆる古着好きというと、服に対する執着や愛着が強く、独自の拘りもあって、他の人と被ってしまうことを忌避する、おしゃれを一度通り越した個性的な格好をする人、という印象がありますが、私の場合は入り方が少し異なります。
たしかに、他人と被ってしまうのは嫌ですが、古着を求めた最初の理由は価格でした。
古着というのは、一度他人が着ているという負の要素を持っていて、理由があって安い、というところが魅力的でした。初期の無印良品のようなイメージかと思います。質は落としたくないがそれほどお金をかけたくない、という大学生くらいの当時の自分にとっては自然な選択でした。また、一点物が多いので、サイズが合わなければ諦めざるを得ません。この点もあまりお金を使えない当時の自分には合っていました。

古着を着るということに積極的な意味を付与するときに、歴史を着る、時間を着る、ということが言われることがあります。時を経たものに織り込まれている襞に対して自覚的であること、というような意味なのだと思いますが、個人的にはあまり説得力を持たない気がします。それは、私自身が古いことに意味を見出していないからだと思います。古いかどうかではなく、自分が今着たいかどうかで選んできた気がします。
そのような理由なので、社会人になって新品を着ることも増えましたし、シルエットの問題から古着からは徐々に離れているように思います。

それでも、古着を着ることがある者として古着を着るということの独自性について考えてみると、古着の中の他者の痕跡は消すことができないことが挙げられると思います。衣服であれば複数回クリーニングをすることである程度薄めることができますが、靴や鞄の場合は、他者の残した皺とともに生活することになるのです。それは、そのものが辿ってきた歴史(人であれば人生と呼べるもの)を一応はそのまま受け入れることだと思います。

ここで、処女信仰のようなものを思い起こします。
ある程度の人生を生きている人であれば、自分の前にも恋人がいたことがあることが当然だと思います。自分がまだ相手の存在すら知らなかったときに、知らない場所で知らない相手に知らない声や知らないしぐさで甘えていたことがあることを捨象することはできません。それを踏まえての目の前の相手を受け入れることは、避けることはできません。
処女信仰はそのような現実から離れた、あまりに純粋な思想だと思います。

革靴に自分の皺をつけたい、という思いを抱くことは間違ったことではありません。それは自分の人生で自分の選択によって道を拓いていくことに似ています。ただ、そこにも必ず他者が介在するのです。その他者の介在を受け入れながら、その中で自分の納得へと近づくために歩を進めていくこと、他者のつけた皺に重ねて自分の皺を刻んでいくこと。古着を着ることには、そのような雑多な、論理的な美しさから遠く離れた、不確定要素に満ちた、言ってみれば生きることのアナロジーがあるのだと思います。
これが、私にとっての時間を着ることです。

2016年4月28日木曜日

美しさについて

今回は美しさについてです。
広い意味で美しさを捉えてみたいと思います。


まだ私が学生で、学習塾でアルバイトをしていたときのことです。大学受験のための塾で、懐いてくれていた生徒の中には、受験が終わって大学生になる前の春休みに塾を訪ねてきてくれる人もいました。大学デビューという単語がありますが、男の子も女の子も、髪を染めたり着飾ったりとしたい時期だと思います。特に女性は、お化粧というものがありますので、雰囲気が大きく変わりやすいものです。

ある年に訪ねて来てくれた女子生徒のひとり(その生徒と私はほとんど話したことがなく、私の同僚に会うために来ていました)が、非常に力を入れてお化粧をしていて、言うならば、過剰になっていました。グスタフ・クリムトという画家の作品における装飾(=過剰さ)について卒業論文を書いた私から見ても、それは過剰であったと言わざるを得ないものでした。

外形だけで捉えると、けばけばしい化粧をした女性、ということになるのだと思います。「生徒時代の方がよかったよね」という声も聞かれました。ただ、私の考えは異なります。
美しくなろうという意志の結晶が、それがたとえ過剰な化粧として表出していたとしても、そこにあるということが美しいのだと思うのです。私は世界を捉えるときに外形理論に依るところが大きいのですが、ここでの外形は化粧をした顔だけを指すわけではありません。大学生活という新たな環境への期待に胸を膨らませて、自分の可能性を疑うことを知らず、より美しくあろうとしている、という文脈も含めての外形であるのです。

そのように考えるとき、外形というものは文脈によっても常に変化していきます。たとえば、ある本を読んだとき、内容は同じであっても、読んだときの自分の状況が変化していれば、それは異なる外形を見せるのです。以前ご紹介した御手洗珠子さんの本の中で、塩沼亮潤さんというお坊さんのお話が出てきます。私はその御手洗さんの著作でその方を初めて知ったのですが、興味を持って塩沼さんの著書を数冊読んでみました。そのあとに御手洗さんの本を読み直した結果、塩沼さんの考え方を知っている自分が同じ御手洗さんの本の同じ部分から読み取る深さは、まったく別の世界でした。

『斜陽』だったか、『人間失格』だったか、太宰治の小説の中で、モルヒネ中毒の主人公が遂に病院に収容されることになったとき、何も知らない無垢な妻が、夫が元気が出る薬だと偽っていたモルヒネを帯の間から差し出す場面があります。欺かれていた無知な女性の間違っている行為かもしれません。ただ、本当に夫のことを大切に思っている妻の行為なのだと思います。単純に画として見ると、決して美しいものではないでしょう。しかし、ここには過剰な化粧の女子生徒と同様な美しさがあると思うのです。これが、私にとっての美しさであります。

太宰の作品の中の妻の思いが報われたのか、あのときの女子生徒が美しい女性になっているのか、それはおそらくあのときの美しさとは無関係のものであると思います。必ずしもそうとは限らないところに人生というものがあるのだと思いますが、ただ、その瞬間、私の目の前には紛れもなく美しさがあったこと。これだけで十分ではないでしょうか。

2016年4月22日金曜日

ファッションの文法

言語に文法というものがあるように、ファッションにも文法のようなものがあるのではないかと思っています。
個人的には帰納的に学ぶことが多かったのですが、それらの学んだ内容を抽象化して、演繹的に学ぶことができるものとしてまとめることができれば、たとえば、「好印象を与えるためのファッション」というものを技術として学ぶことが可能になるのだろうと思います(*)。


以前好きだった人が、画家を、「線派」と「色派」に分けて、どちらが好きなのかと訊いてきたことがありました。「線派」の代表として彼女が最も好きな画家、トゥールーズ=ロートレックが挙げられ、一方の「色派」の例として、そのときはボナールが挙げられました。線の方が美しいけれど、どちらかというとより惹かれるのは色かなあ、などと答えたような、もしくは、彼女に寄せてそのときは線派になったのか、当時の記憶は定かではありませんが、このふたつの区別はファッションにおいても使えると思います。シルエットによりこだわる人と、模様や色を含めた見た目によりこだわる人に分けることができそうです。非常に大雑把な括りですが、デザイナーや建築家は前者が多い気がしますし、いわゆる、「個性的な」、「芸術家のような」人には後者が多い気がしています(**)。

きわめて個人的な独断と偏見ではありますが(***)、ぱっと見たときにおしゃれに見えるためには、①サイズ感 と、②色味を統一すること の2点が重要になってくると思います(****)。

サイズ感について。まず、自分の体に沿ったラインを構成することが重要です。ズボンの丈が長すぎないこと、胸回り・胴周りに無駄なゆとりがないこと、乱暴に簡略化すれば、太い物よりも細い物の方がすっきりと見えておしゃれに見えやすいと思います。自分に合うサイズというものは非常に難しくて、私自身も、以前に買ったジャケットなどは、今着てみると大きすぎることがわかりますが、当時はわかりませんでしたし、そこまで見えていませんでした。目が肥えていなかったということだと思います。単純化すると、困ったら若干細すぎるかなくらいのものを選んでみる、ということに落ち着きます。失敗を繰り返すことも必要になるというか、避けられません。ものごとには時間を必要とするタイミングがあるのだと思います。

色味について。全身を3色でまとめるように意識してみると随分変わると思います。靴やバッグも含めて3色です。面積の小さい部分などに4色目を足すこともありだと思います。逆に、2色や、ましてや1色だと尖って見えるので、一般的には3色が適切だと思います。その3色の中でも、あまり主役となりすぎる色を選ばない方がまとまりはつくりやすいです。赤や黄色などの主張の強い色よりも、白やグレイ、赤系を使うにしても少し暗さのある臙脂など、全体のバランスを揃えることを意識するとよいと思います。それら3色の関係性をかたちづくることまで意識してグラデーションをつくったりすることができるとよりきれいにまとまると思います。

以上、2点は様々な人によってそれぞれに言い古されて、もはや古語の領域だと思いますが、私がそこに新しいひとつを加えることも、それぞれの人は絶対的に異なる存在であってあらゆる出来事は一回性のうちにあることを考えると意味のあることだと思います。

最後に、目を培うためには、実践の数が重要です(これは私の専門の美術についても当てはまると思います)。そして、その実践の中で自分が心惹かれる対象の特徴を抽出することができれば、自分の好みを説明できるようになるので、その特徴に従って選べば着なくなるものを揃えてしまうことも少なくなると思います。ただ、母語の文法を説明できなくても話すことができるように、理由を説明できなくても好き嫌いは判断できるので、必ずしも抽象化する必要はありませんが、興味があればやってみてもよいのではないかと思います。私は、いくつかファッションスナップを載せているウェブサイトを巡って、気になる写真を保存して定期的に整理をすることで自分の好みが見えてくると感じています。ある程度のまとまった量を集中的に見ることで把握できることもあるのです。
以下に、参考となるサイトを載せておきます。

非常に有名なページです。ファッション関係者が中心で尖った格好が多いですが、ファッションに費やしている時間が長い人たちを見ることは勉強になると思います。すべてを真似するというよりも、エッセンスだけを受け取るようなかたちがおすすめです。男性のスーツスタイルのまとまりを重視しながらも華やかな合わせ方は参考になります。

更新頻度は高くないですが、尖鋭的なファッションを扱っている点ではおすすめです。

レディースが主ですが、非常に美しい写真を載せています。少し前の時期の写真を載せることが多いのですが、古い感じもせず、新しい物だけを追い続けていない姿勢に好感が持てます。風景のシリーズは、ゆったりとした時間が流れていて、おすすめです。モデルを美しく撮る人だと思います。


(*)しかし、目的ではなく手段として装うことはダンディズムの対極にある考え方であるとダンディズムの祖であるジョージ・ブランメルを見ているとわかります。彼は独房においても普段と寸分の違いもなく装ったと言います。それは、他人のために装う(この考え方は鷲田清一さんの著作にたびたび現れます、夏場に僧侶が、暑くなるのにもかかわらず、透け感のある衣を一枚はおり、周りに見た目の涼しさを提供したという内容です)のではなく、徹頭徹尾自分のために、そして、装うために装うということなのです(詳しくは、生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』中央公論新社、1993)。歴史から学ぶことは膨大であると思います。

(**)ただ、のちに、美術史を生業としている先生に、先生の一番好きな画家は誰ですか、と、なんとなく、会話の空白のぎこちなさを埋めるためだけに尋ねたときの答えが、新しい地平を開いてくれました。それは、「いっぱい居すぎて選べない」というものでした。これこそが本当なのだと思いました。先生の専門のカンディンスキーかな、自分ならクリムトだろうか、などと考えながら訊いてみたのですが、画家にはそれぞれに良さがあって、それらを比較するためにはひとつの基準を仮に立てなければならなくて、そのような比べるためだけに立てられる基準は本質的なものではなく、まさに正解は、本当に美術に浸って生きている人の答えは、「いっぱい居すぎて選べない」であるべきなのだと、はたと気づいたのでした。そのときまで、自分が一番興味のある画家はクリムトだ、と疑いもなく思っていた自分を深く恥じたのでした。

(***)果たして個人的でない意見など存在するのでしょうか、否、というのが私の答えであって、あらゆる意見は同じ時間と場所が存在しない以上一回性を持ちますし、ある特定の人から発せられるという点で個人的なものであり、普遍性を帯びることもありますが、根本としては個人的でないものは存在しないと考えています。これは視点の問題として捉えることができて、人間は自分の視点を離れることができません。仮に離れることができる存在があったとしたら(自分の視点を離れたことを想像するときさえも自分の視点を離れることはできませんから、そもそも想像することさえできませんが)、それを私は「神」と呼びたいと思います。

(****)おそらく大学3年生くらいのとき、まだ実家に住んでいて、①サイズ感と②色味を統一すること、というおしゃれに見えるためのふたつの条件を見つけた、と母に報告したことがあったのですが、「え? そんな当然なことにいまさら気づいたの??」と言われて、自分の外では常識であったのだと知りました。ただ、これは情報として得たものではなく、実体験に基づいて、時間をかけて帰納的に気づいたものであって、知識ではなく体験であるために、より直接的に実践に繋がっています、というか、実践の一部であると言えるのです。その点で、実際に使えるものであると思うのです。

2016年4月19日火曜日

Daughter について

今日は、私がよく聞いている音楽について書いてみます。

Daugher というバンドがありまして、繊細な声とメロディー、揺れるような歌詞が魅力的です。このブログの最初でも言及しています。  
最初の出会いは偶然だったと思いますが、一度きりの人生の中ではあらゆる偶然は必然です。最初に聞いたのは、Blue and Gray か、Youth だった気がします。音の流れに惹かれて、歌詞を調べてみると内容も美しい。
よろしければ一度聞いてみてください。 


 
この動画の中でも何度も、”So beautiful……” と言われていますが、この言葉がとても似つかわしい表現だと思います。

また、ボーカルの、Elena Tonra のファッションも好きです。
ノースリーブが多かったり、黒を基調としたものを多く着用していたり、無地の白Tシャツを袖を折り返して着ていたり、細かな柄の服が多かったり、アクセサリーも控えめですけれど意味のある使い方だったり……。おそらくヨーロッパの女性らしく巻き物を使うのが上手だったりするのだろうな、などと想像します。


私が好きなもうひとつのバンド、The Crookes よりは有名だと思うので、きっとご存知の方もいらっしゃるのではないかと思います。
調べてみると、4月に来日して演奏していたそうです。知らなかったです……。聞きに行けなかったことは非常に残念です……。

2016年4月15日金曜日

見た目だけ、英國紳士

以前、煙草を吸っていた時期があったのですが(*)、「えー、似合わない、やめなよ」と言われることが多かったです。ただ、一度だけ、「なんとなく英国紳士的だから、言われてみれば納得しないこともない」と言われたことがありました。ほお、英國紳士的かあ(脳内で勝手に「英国紳士」を「英國紳士」と置き換えました)、なんとなくうれしいなあ、などと思ったので、若干ではなく顔がにやけていたと思います(笑)。



さて、今回は、外から見た印象(以下ではこれを外形と呼ぶことにします)と相手が受ける印象の関係性について考えてみたいと思います。
外形とは、見た目だけではなく、行動も含めてもっと広く捉えたものであるとします。他人の心の中は見えませんから、他者がある人を判断するうえでの材料は外形のみに依っていると考えると、ある印象を与える情報すべてが外形であると言えるため、ある視点をとる上では、外形と印象が一致しないという事態は存在し得ないということになります。印象とは完全に外形に依っていて、外形から帰納的に導き出されるものであるからです。
たとえば、「①にこにこしていて一見優しそうだけれど、本当は人に興味がなかったり、冷めたところがあったりするように見える」という印象を与える人がいたとします。①の部分が外見からの印象であることには多くの人がすんなりと納得してくれると思います。問題は、②の部分です。外形理論から考えると、②の印象を与えるのも、①と同じく外形であると考えます。動作なのか、視線の動きなのか、一瞬見せた表情なのか、話し方なのか、話す内容なのか……、本当にたくさんの可能性がありますし、それらの関係性によって形づくられるものなのかもしれませんが、ともかく、外形から②の印象を与えてしまっているのです。

ここで、英國紳士に戻ってくると、私が「見た目だけ英國紳士」という印象をある人に与えたとすると、私の外形が、英國紳士ではなく、「見た目だけ英國紳士」であったということです。それがどのような外形によって形づくられたのかは定かではありませんが、そのような印象を与える外形を持っていたということなのです(ここでは相手の受け取り方(言い換えれば受け取る意味)を捨象して考えていますが、相手という存在は非常に重要です。相手については、言葉を用いたコミュニケーションと重なる部分も多いので、「わからなさについて」の図を参照してください)。
ここから一歩進むと、外形を完全に整えることができれば、ある程度意図した通りの印象を相手に与えることができるのではないか、ということなのです。また、印象を制御することは理論的には可能ですが、先に挙げた相手という存在を最たるものとしてたくさんの変数が関係してきて実践するには非常に難しいのですが、見方を変えれば、思い通りの印象を与えることができなかったとき、自分が意図しなかった外形を表現してしまっていた部分があったはずである、そこを改善しなければならない、と考えることができるということなのです。

上記のようなことを日常の中や美術館で作品を見ながら(**)なんとなく考えていたのですが、いろいろな試行錯誤を経て辿りついたのは、外形だけを整えることは難しく、外形と感情は密接に結びついているために、感情も含めて外形を整える方が容易であり、効果的でもある、ということです。たとえば、内面で苛立ちながらにこにこするというとき、にこにこしながらも外形として苛立ちがどこかに表れてしまっていると思うのです。また、そのような感情と外形に乖離のある表現をしているときには内面へ負担がかかります。そうであるならば、内面でにこにこしながらにこにこしていた方が負担も少なく、また、乖離が外形として出てしまうこともないので、外形だけを整える技術的な訓練を自分に課すよりも、心を整えることに注力すべきなのだと思います。

今回は、本文の文脈から離れてしまうので注釈として書いた(*)や(**)の内容も考えが詰まっていておもしろいと思うので、よろしければご覧ください。


(*)理由としては、大学4年の頃に遡ります。卒業論文を書くために、ウィーンにグスタフ・クリムトの絵を見に行きました(日本国内には愛知県立美術館というところに1点油彩がありますが、それ以外はスケッチ等が多くきちんと見るためには現地に行くのがおすすめです)。ウィーンという街は、非常にコンパクトで治安もよいですし、目を引くような建築物があったりと、おもしろいのですが、灰皿が100mおきくらいに置いてあるという喫煙者に優しい街でありまして、ここで、クリムトやシーレも煙草を吸っていたのかもしれない……、と考え、同じウィーンの街で煙草を吸ってみたいと徐々に思うようになっていました(冷静に考えれば、1900年頃から灰皿があったわけではないでしょうから、クリムトやシーレが吸ったかなんてわかりませんけれど)。そんな中、オーストリア応用美術博物館というところで行われていた建築のシンポジウムを偶然見ることができました。藤村龍至さんが登壇されていて、初めて本物の藤村さんをウィーンで見ることになりました。そこで、隣に座っていたオーストリア人の建築の学生の服装が黒一色で、ブロンドの髪の色が映えていて、すてきだなあなどと思っていると、偶然話すきっかけがあり、シンポジウムの後でいろいろ話をすることができました。そのときの彼女の、こちらも黒の革の鞄から、赤いパッケージがのぞいていました。訊ねてみると、ゴロワーズというフランスの煙草だそうです。ちょっと風味が特別なんだよ、と言います。ここで、私のウィーンで吸う煙草が決まりました。ゴロワーズは日本でも手に入るものだったのですが、気づけばいつしか私は煙草から離れていきました。おそらく、私は煙草をウィーンに置いてきたのだと思います。



(**)美術作品は外形理論が最も美しく成り立つひとつだと思います。2013年の7月に、六本木の国立新美術館で、「貴婦人と一角獣」展が開催されていました。クリュニー中世美術館の至宝がフランス国外に出るという非常に大きな幸運で、一度では足らず二度見に行きました。そこで、《視覚》という作品を前にして、貴婦人と一角獣の間に親密な雰囲気を感じたのですが、彼らは本来布でしかなく感情を持ちません。その布に対して感情を読み取るのは、完全に外形からなのだろうと考えました。以下は2013714日のノートからの抜粋です。絵画と外形理論の関係という点に重点をおいて、直接は関わりが薄い部分も含めて、引用します。
《視覚》での、貴婦人と一角獣のこの親密さはなんだろうか。親密さのような感情にかかわるものはすべて外形から推測されるものに過ぎない。例えば、恋人がある。手をつなぐ、キスをする、というような親密さを示す外形をなぞることで、自らと相手の間に(もしくはそれぞれの中に)親密さ(いや、「親密さ」というようなものは存在せず、「親密性」、つまり関係性としてしか存在しないものなのか)が存在しているのだと納得しようとするのではないか。その実、親密さ(親密性)のようなものは、あくまで外形として、表層にしか存在しないのではないか。ここから生まれるのは、「表層礼讃」のような考え方で、表面上だけでよいではないか、ということ。表層のみが存在する。その奥には何もない。というか、その奥というものが存在しない。薄っぺらなことが世界だとしたら、絵画は世界の比喩、というよりも、世界が絵画の比喩なのではないか。表面にしかない、というよりも、表面しかない。表面しかないものから、その先を読み取る(読み取ろうとする)ことが生きるということなのかもしれない。ただ、自分以外に内面(奥)が存在するかというと、実は存在しないのではないかと思う。存在しているとしても、それは自分と切り離されて「○○さん」として存在しているのではなく、「自分にとっての○○さん」という形でしか存在していない。つまり、自分の中にしか存在していない。新たな事実や噂を知ることや実際のかかわりを通じて「自分にとっての○○さん」像が変化していくだけである。本当はこんな人だったんだ! というのは「本当の○○さん」の発見ではなく、「自分にとっての○○さん」像の変化であるに過ぎない。「自分にとっての○○さん」像はあくまで自分の中にあるものである。平面の絵画空間の中に奥行きを見出そうとする工夫が遠近法であるとするならば、外形という表層のみの世界に、他人の内面や感情を見出そうとする行為は、つまり遠近法なのではないか。その際に必要になるのは「特定のひとつの視点の固定化」であるという点も重なっている。その遠近法を放棄するという二十世紀絵画の流れに、ここでわれわれも遅ればせながら乗るべきなのではないか。つまり、宣言することだ、世界は平面であると、言うならば、世界は表層である、と。感情は表層のみに存在すると考えると、外形は感情に先行する。人間関係とは外形から感情を読み取ってもっとも適切な行動をする(知的)遊戯なのではないか。外形とは感情のメタファーであるように見なされるが、感情こそが外形のメタファーなのではないか。


2016年4月14日木曜日

わからなさについて

今回は、わからなさについて書いてみようと思います。
きっかけは、職場での出来事があります。ある日、同僚の女性が生理がつらくて休憩していました。そこに偶然私もいたのですが、その女性がつらさについて話してくれて、一通り話した後に、「でも、わかんないですよね、男性だから……」と言われたのでした。




たしかに、男性に生理のつらさはわかりません。それは、経験したことないことも理由の一部なのだと思います(参照 スプツニ子 生理マシーン ちなみに、彼女の作品の中では、2014年に東京都現代美術館で行われていた「うさぎスマッシュ 世界に触れる方法」展で放送されていた作品に心を奪われたことがありました。人気を得やすいポップさやえげつないようにも見えるカメラアングルなど、人が好きになりそうな要素が散りばめられています。また、おそらく単純に俳優さんがかわいらしいということも理由だったのだと思います……)。

しかし、わからなさというものは質的な問題ではないと思います。体験とは、「出来事+受容者」として表すことができるので、どのような体験であっても、個別的であって、他者は体験することができないものなのです。時間と空間が存在する以上、まったく同じ出来事が起こることはありませんし、それぞれに生きてきた時間と環境がある以上、まったく同じ経験をしてきている人もいません。そして、出来事と受容者の和としての体験が同じになることもあり得ないのです。

当然なことを書き続けてきてしまいましたが、上記の理由から、厳密な意味で「わかる」ということは存在しないのだと言えます。「うん、気持ちはわかるよ」という言葉をかけてもらうことはありますし、その場面では本当に完璧な理解を必要とするわけではないので支障があるわけではないのですが、厳密に考えると、どこかで必ずわからない、わかっていないはずです。(冷たいと思われることも多々あるかと思いますが、上述の理由から、私は、わかるよ、とは言わないようにしていて、常にわからないなあ、と思っています。)

同じことは言葉にも言えるはずで、ある程度共通した意味を持っていると仮定している言葉を媒介に私たちは意志疎通をはかることが多いのですが、それらの言葉の意味も、使用者の経験から意味付けが変わってくるはずで、それをある程度普遍的な意味を持ったと思われている音声や文字にし、そしてそれはさらに、受容者の経験からも意味付けが変わってくるはずで、ひとつひとつの単語においてこのような作用が起こっており、それが連続して複数起こり続けているのが会話という動作であると思います。個々の小さなわからなさが積み重なっていくわけですから、わからなさに向かっている構造だと思うのです。


 「使用者にとっての意味」 
→変換→
 「音声・文字としての言葉」
→変換→
 「受容者にとっての意味」










はじめの話に戻ると、経験していないからわからない、というのは実際に説得力を持ちそうですが、同じ体験がない以上、あらゆるものは類似の体験でしかないわけで、生理についてのわからなさにおいて、体験している女性と、体験したことがない男性の間のわからなさというものは、大きな意味では同じわからなさであると思うのです。

たとえば、「同じ釜の飯を食った」とは言いますが、あくまでも、同じ釜の飯を食べたのみであり、ごはん自体は別物だし、食べた人も別人であって、完全に同じわけではないのです。

それでも、その不完全さの中に「わかる」ことを追い求めること、わからなさの構造の中で少しでも「わかる」に近づこうとすること、わからないなあ、と思いながら、そのことだけはいつも心に留めています。

御手洗瑞子さんについて

今回は、私の気になる人について書いてみたいと思います。


その方は、御手洗珠子(みたらいたまこ)さんとおっしゃる方です。
現在は、気仙沼ニッティングという編み物の会社をなさっていて、その前にはブータンという国で外国籍公務員として勤務されていたということでご存知の方もいらっしゃるかと思います。

メディアに取り上げられる機会も多い方ですし、私自身も半年ほど前の朝日新聞の記事でお話を読みましたし、その前から存在は知っていた気がします。
ただ、なんとなく知っているというだけで、どのような考え方でどのようなことをなさっているのかまでは詳しく知りませんでした。「ブータン」、「被災地で会社を立ち上げた若い女性」というような表面上のキーワードだけで知っていたようなところがあります。

ひと月ほど前に、インターネットの記事で御手洗さんのお話を読む機会があり、それをきっかけに、著書を読んでみました(『ブータン、これでいいのだ』(新潮社 2012年)、『気仙沼ニッティング物語』(新潮社 2015年))。また、TEDという動画で実際にお話をされている様子を見ることもできました。

ここで感じたことは、とにかく現場にこだわる方であるということ、そして、仕事を、しなければいけないこと、ではなく、主体的に自らのすべきこととして捉えている姿勢でした。

ひとつめの、現場にこだわるということについて。働く上で、崇高な理想や洗練されたアイデアを持つことは大切ですが、それらは現場で実践に移されてはじめて意味を持つのだと思います。賢い方で論理的な戦略というものに説得力を持たせることもできる方なのだと思いますが、理論を重視し過ぎることなく、毎日の一瞬一瞬の具体的な積み重ねでしかないということを、忠実に、ひとつひとつ行っている方だと思いました。

ふたつめの、仕事の捉え方について。ブータンでの働き方も、現在の気仙沼ニッティングでの働き方も、誰かに指示されて行っているのではなく、自分で考えて、自分で必要だと思う行動をしている印象が強くありました。仕事とは与えられるものではないということです(小説家の平野啓一郎さんが、森鷗外は仕事を「為事」と書いていて、その考え方が好き、と書かれていましたが、私もその考え方には共感しているところがあります)。

私自身も、現場で働き始めて丸2年間経ちました。現場長いな……、などと思っていたのですが、あるとき、あらゆるアイデアは現場で実践に移されてこそ意味を持つと気づき(あくまで、現場が消費者との最終的な接点であり続けている限り、ですが)、どんな理想も実際の行動にならなければ理想のままであるのだとずっしりと知ることができました。この気づきのためにずっと現場にいたのだな、と思いましたし、現場で働き続ける期間は、具体的な現場の実践に落とし込むための訓練の時期なのだと思うようになりました。また、毎日少しでもよくなっていくように、自分の視点で変化を生み出していく必要も感じるようになりました。このような現状にとって、御手洗珠子さんの言葉がすっと入ってきたのだと思います。

とても魅力的な考え方をされる方だなあと思います。
いつかお会いしてお話ししてみたいものです。
もが、もがな、です。


(どうやら私は、知りたいことがあると、集中して情報を集めようとする傾向があるらしく、気になる内容があれば、そのことに関する書籍などを集中的に読みます。また、ある本を読むと、その本の中で言及されていた本や、参考文献を読むことも多いです。)