2016年4月14日木曜日

わからなさについて

今回は、わからなさについて書いてみようと思います。
きっかけは、職場での出来事があります。ある日、同僚の女性が生理がつらくて休憩していました。そこに偶然私もいたのですが、その女性がつらさについて話してくれて、一通り話した後に、「でも、わかんないですよね、男性だから……」と言われたのでした。




たしかに、男性に生理のつらさはわかりません。それは、経験したことないことも理由の一部なのだと思います(参照 スプツニ子 生理マシーン ちなみに、彼女の作品の中では、2014年に東京都現代美術館で行われていた「うさぎスマッシュ 世界に触れる方法」展で放送されていた作品に心を奪われたことがありました。人気を得やすいポップさやえげつないようにも見えるカメラアングルなど、人が好きになりそうな要素が散りばめられています。また、おそらく単純に俳優さんがかわいらしいということも理由だったのだと思います……)。

しかし、わからなさというものは質的な問題ではないと思います。体験とは、「出来事+受容者」として表すことができるので、どのような体験であっても、個別的であって、他者は体験することができないものなのです。時間と空間が存在する以上、まったく同じ出来事が起こることはありませんし、それぞれに生きてきた時間と環境がある以上、まったく同じ経験をしてきている人もいません。そして、出来事と受容者の和としての体験が同じになることもあり得ないのです。

当然なことを書き続けてきてしまいましたが、上記の理由から、厳密な意味で「わかる」ということは存在しないのだと言えます。「うん、気持ちはわかるよ」という言葉をかけてもらうことはありますし、その場面では本当に完璧な理解を必要とするわけではないので支障があるわけではないのですが、厳密に考えると、どこかで必ずわからない、わかっていないはずです。(冷たいと思われることも多々あるかと思いますが、上述の理由から、私は、わかるよ、とは言わないようにしていて、常にわからないなあ、と思っています。)

同じことは言葉にも言えるはずで、ある程度共通した意味を持っていると仮定している言葉を媒介に私たちは意志疎通をはかることが多いのですが、それらの言葉の意味も、使用者の経験から意味付けが変わってくるはずで、それをある程度普遍的な意味を持ったと思われている音声や文字にし、そしてそれはさらに、受容者の経験からも意味付けが変わってくるはずで、ひとつひとつの単語においてこのような作用が起こっており、それが連続して複数起こり続けているのが会話という動作であると思います。個々の小さなわからなさが積み重なっていくわけですから、わからなさに向かっている構造だと思うのです。


 「使用者にとっての意味」 
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 「音声・文字としての言葉」
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 「受容者にとっての意味」










はじめの話に戻ると、経験していないからわからない、というのは実際に説得力を持ちそうですが、同じ体験がない以上、あらゆるものは類似の体験でしかないわけで、生理についてのわからなさにおいて、体験している女性と、体験したことがない男性の間のわからなさというものは、大きな意味では同じわからなさであると思うのです。

たとえば、「同じ釜の飯を食った」とは言いますが、あくまでも、同じ釜の飯を食べたのみであり、ごはん自体は別物だし、食べた人も別人であって、完全に同じわけではないのです。

それでも、その不完全さの中に「わかる」ことを追い求めること、わからなさの構造の中で少しでも「わかる」に近づこうとすること、わからないなあ、と思いながら、そのことだけはいつも心に留めています。

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