2016年4月15日金曜日

見た目だけ、英國紳士

以前、煙草を吸っていた時期があったのですが(*)、「えー、似合わない、やめなよ」と言われることが多かったです。ただ、一度だけ、「なんとなく英国紳士的だから、言われてみれば納得しないこともない」と言われたことがありました。ほお、英國紳士的かあ(脳内で勝手に「英国紳士」を「英國紳士」と置き換えました)、なんとなくうれしいなあ、などと思ったので、若干ではなく顔がにやけていたと思います(笑)。



さて、今回は、外から見た印象(以下ではこれを外形と呼ぶことにします)と相手が受ける印象の関係性について考えてみたいと思います。
外形とは、見た目だけではなく、行動も含めてもっと広く捉えたものであるとします。他人の心の中は見えませんから、他者がある人を判断するうえでの材料は外形のみに依っていると考えると、ある印象を与える情報すべてが外形であると言えるため、ある視点をとる上では、外形と印象が一致しないという事態は存在し得ないということになります。印象とは完全に外形に依っていて、外形から帰納的に導き出されるものであるからです。
たとえば、「①にこにこしていて一見優しそうだけれど、本当は人に興味がなかったり、冷めたところがあったりするように見える」という印象を与える人がいたとします。①の部分が外見からの印象であることには多くの人がすんなりと納得してくれると思います。問題は、②の部分です。外形理論から考えると、②の印象を与えるのも、①と同じく外形であると考えます。動作なのか、視線の動きなのか、一瞬見せた表情なのか、話し方なのか、話す内容なのか……、本当にたくさんの可能性がありますし、それらの関係性によって形づくられるものなのかもしれませんが、ともかく、外形から②の印象を与えてしまっているのです。

ここで、英國紳士に戻ってくると、私が「見た目だけ英國紳士」という印象をある人に与えたとすると、私の外形が、英國紳士ではなく、「見た目だけ英國紳士」であったということです。それがどのような外形によって形づくられたのかは定かではありませんが、そのような印象を与える外形を持っていたということなのです(ここでは相手の受け取り方(言い換えれば受け取る意味)を捨象して考えていますが、相手という存在は非常に重要です。相手については、言葉を用いたコミュニケーションと重なる部分も多いので、「わからなさについて」の図を参照してください)。
ここから一歩進むと、外形を完全に整えることができれば、ある程度意図した通りの印象を相手に与えることができるのではないか、ということなのです。また、印象を制御することは理論的には可能ですが、先に挙げた相手という存在を最たるものとしてたくさんの変数が関係してきて実践するには非常に難しいのですが、見方を変えれば、思い通りの印象を与えることができなかったとき、自分が意図しなかった外形を表現してしまっていた部分があったはずである、そこを改善しなければならない、と考えることができるということなのです。

上記のようなことを日常の中や美術館で作品を見ながら(**)なんとなく考えていたのですが、いろいろな試行錯誤を経て辿りついたのは、外形だけを整えることは難しく、外形と感情は密接に結びついているために、感情も含めて外形を整える方が容易であり、効果的でもある、ということです。たとえば、内面で苛立ちながらにこにこするというとき、にこにこしながらも外形として苛立ちがどこかに表れてしまっていると思うのです。また、そのような感情と外形に乖離のある表現をしているときには内面へ負担がかかります。そうであるならば、内面でにこにこしながらにこにこしていた方が負担も少なく、また、乖離が外形として出てしまうこともないので、外形だけを整える技術的な訓練を自分に課すよりも、心を整えることに注力すべきなのだと思います。

今回は、本文の文脈から離れてしまうので注釈として書いた(*)や(**)の内容も考えが詰まっていておもしろいと思うので、よろしければご覧ください。


(*)理由としては、大学4年の頃に遡ります。卒業論文を書くために、ウィーンにグスタフ・クリムトの絵を見に行きました(日本国内には愛知県立美術館というところに1点油彩がありますが、それ以外はスケッチ等が多くきちんと見るためには現地に行くのがおすすめです)。ウィーンという街は、非常にコンパクトで治安もよいですし、目を引くような建築物があったりと、おもしろいのですが、灰皿が100mおきくらいに置いてあるという喫煙者に優しい街でありまして、ここで、クリムトやシーレも煙草を吸っていたのかもしれない……、と考え、同じウィーンの街で煙草を吸ってみたいと徐々に思うようになっていました(冷静に考えれば、1900年頃から灰皿があったわけではないでしょうから、クリムトやシーレが吸ったかなんてわかりませんけれど)。そんな中、オーストリア応用美術博物館というところで行われていた建築のシンポジウムを偶然見ることができました。藤村龍至さんが登壇されていて、初めて本物の藤村さんをウィーンで見ることになりました。そこで、隣に座っていたオーストリア人の建築の学生の服装が黒一色で、ブロンドの髪の色が映えていて、すてきだなあなどと思っていると、偶然話すきっかけがあり、シンポジウムの後でいろいろ話をすることができました。そのときの彼女の、こちらも黒の革の鞄から、赤いパッケージがのぞいていました。訊ねてみると、ゴロワーズというフランスの煙草だそうです。ちょっと風味が特別なんだよ、と言います。ここで、私のウィーンで吸う煙草が決まりました。ゴロワーズは日本でも手に入るものだったのですが、気づけばいつしか私は煙草から離れていきました。おそらく、私は煙草をウィーンに置いてきたのだと思います。



(**)美術作品は外形理論が最も美しく成り立つひとつだと思います。2013年の7月に、六本木の国立新美術館で、「貴婦人と一角獣」展が開催されていました。クリュニー中世美術館の至宝がフランス国外に出るという非常に大きな幸運で、一度では足らず二度見に行きました。そこで、《視覚》という作品を前にして、貴婦人と一角獣の間に親密な雰囲気を感じたのですが、彼らは本来布でしかなく感情を持ちません。その布に対して感情を読み取るのは、完全に外形からなのだろうと考えました。以下は2013714日のノートからの抜粋です。絵画と外形理論の関係という点に重点をおいて、直接は関わりが薄い部分も含めて、引用します。
《視覚》での、貴婦人と一角獣のこの親密さはなんだろうか。親密さのような感情にかかわるものはすべて外形から推測されるものに過ぎない。例えば、恋人がある。手をつなぐ、キスをする、というような親密さを示す外形をなぞることで、自らと相手の間に(もしくはそれぞれの中に)親密さ(いや、「親密さ」というようなものは存在せず、「親密性」、つまり関係性としてしか存在しないものなのか)が存在しているのだと納得しようとするのではないか。その実、親密さ(親密性)のようなものは、あくまで外形として、表層にしか存在しないのではないか。ここから生まれるのは、「表層礼讃」のような考え方で、表面上だけでよいではないか、ということ。表層のみが存在する。その奥には何もない。というか、その奥というものが存在しない。薄っぺらなことが世界だとしたら、絵画は世界の比喩、というよりも、世界が絵画の比喩なのではないか。表面にしかない、というよりも、表面しかない。表面しかないものから、その先を読み取る(読み取ろうとする)ことが生きるということなのかもしれない。ただ、自分以外に内面(奥)が存在するかというと、実は存在しないのではないかと思う。存在しているとしても、それは自分と切り離されて「○○さん」として存在しているのではなく、「自分にとっての○○さん」という形でしか存在していない。つまり、自分の中にしか存在していない。新たな事実や噂を知ることや実際のかかわりを通じて「自分にとっての○○さん」像が変化していくだけである。本当はこんな人だったんだ! というのは「本当の○○さん」の発見ではなく、「自分にとっての○○さん」像の変化であるに過ぎない。「自分にとっての○○さん」像はあくまで自分の中にあるものである。平面の絵画空間の中に奥行きを見出そうとする工夫が遠近法であるとするならば、外形という表層のみの世界に、他人の内面や感情を見出そうとする行為は、つまり遠近法なのではないか。その際に必要になるのは「特定のひとつの視点の固定化」であるという点も重なっている。その遠近法を放棄するという二十世紀絵画の流れに、ここでわれわれも遅ればせながら乗るべきなのではないか。つまり、宣言することだ、世界は平面であると、言うならば、世界は表層である、と。感情は表層のみに存在すると考えると、外形は感情に先行する。人間関係とは外形から感情を読み取ってもっとも適切な行動をする(知的)遊戯なのではないか。外形とは感情のメタファーであるように見なされるが、感情こそが外形のメタファーなのではないか。


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