私は古着を着ることが多いです。
いわゆる古着好きというと、服に対する執着や愛着が強く、独自の拘りもあって、他の人と被ってしまうことを忌避する、おしゃれを一度通り越した個性的な格好をする人、という印象がありますが、私の場合は入り方が少し異なります。
たしかに、他人と被ってしまうのは嫌ですが、古着を求めた最初の理由は価格でした。
古着というのは、一度他人が着ているという負の要素を持っていて、理由があって安い、というところが魅力的でした。初期の無印良品のようなイメージかと思います。質は落としたくないがそれほどお金をかけたくない、という大学生くらいの当時の自分にとっては自然な選択でした。また、一点物が多いので、サイズが合わなければ諦めざるを得ません。この点もあまりお金を使えない当時の自分には合っていました。
古着を着るということに積極的な意味を付与するときに、歴史を着る、時間を着る、ということが言われることがあります。時を経たものに織り込まれている襞に対して自覚的であること、というような意味なのだと思いますが、個人的にはあまり説得力を持たない気がします。それは、私自身が古いことに意味を見出していないからだと思います。古いかどうかではなく、自分が今着たいかどうかで選んできた気がします。
そのような理由なので、社会人になって新品を着ることも増えましたし、シルエットの問題から古着からは徐々に離れているように思います。
それでも、古着を着ることがある者として古着を着るということの独自性について考えてみると、古着の中の他者の痕跡は消すことができないことが挙げられると思います。衣服であれば複数回クリーニングをすることである程度薄めることができますが、靴や鞄の場合は、他者の残した皺とともに生活することになるのです。それは、そのものが辿ってきた歴史(人であれば人生と呼べるもの)を一応はそのまま受け入れることだと思います。
ここで、処女信仰のようなものを思い起こします。
ある程度の人生を生きている人であれば、自分の前にも恋人がいたことがあることが当然だと思います。自分がまだ相手の存在すら知らなかったときに、知らない場所で知らない相手に知らない声や知らないしぐさで甘えていたことがあることを捨象することはできません。それを踏まえての目の前の相手を受け入れることは、避けることはできません。
処女信仰はそのような現実から離れた、あまりに純粋な思想だと思います。
革靴に自分の皺をつけたい、という思いを抱くことは間違ったことではありません。それは自分の人生で自分の選択によって道を拓いていくことに似ています。ただ、そこにも必ず他者が介在するのです。その他者の介在を受け入れながら、その中で自分の納得へと近づくために歩を進めていくこと、他者のつけた皺に重ねて自分の皺を刻んでいくこと。古着を着ることには、そのような雑多な、論理的な美しさから遠く離れた、不確定要素に満ちた、言ってみれば生きることのアナロジーがあるのだと思います。
これが、私にとっての時間を着ることです。

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