言語に文法というものがあるように、ファッションにも文法のようなものがあるのではないかと思っています。
個人的には帰納的に学ぶことが多かったのですが、それらの学んだ内容を抽象化して、演繹的に学ぶことができるものとしてまとめることができれば、たとえば、「好印象を与えるためのファッション」というものを技術として学ぶことが可能になるのだろうと思います(*)。
以前好きだった人が、画家を、「線派」と「色派」に分けて、どちらが好きなのかと訊いてきたことがありました。「線派」の代表として彼女が最も好きな画家、トゥールーズ=ロートレックが挙げられ、一方の「色派」の例として、そのときはボナールが挙げられました。線の方が美しいけれど、どちらかというとより惹かれるのは色かなあ、などと答えたような、もしくは、彼女に寄せてそのときは線派になったのか、当時の記憶は定かではありませんが、このふたつの区別はファッションにおいても使えると思います。シルエットによりこだわる人と、模様や色を含めた見た目によりこだわる人に分けることができそうです。非常に大雑把な括りですが、デザイナーや建築家は前者が多い気がしますし、いわゆる、「個性的な」、「芸術家のような」人には後者が多い気がしています(**)。
きわめて個人的な独断と偏見ではありますが(***)、ぱっと見たときにおしゃれに見えるためには、①サイズ感 と、②色味を統一すること の2点が重要になってくると思います(****)。
サイズ感について。まず、自分の体に沿ったラインを構成することが重要です。ズボンの丈が長すぎないこと、胸回り・胴周りに無駄なゆとりがないこと、乱暴に簡略化すれば、太い物よりも細い物の方がすっきりと見えておしゃれに見えやすいと思います。自分に合うサイズというものは非常に難しくて、私自身も、以前に買ったジャケットなどは、今着てみると大きすぎることがわかりますが、当時はわかりませんでしたし、そこまで見えていませんでした。目が肥えていなかったということだと思います。単純化すると、困ったら若干細すぎるかなくらいのものを選んでみる、ということに落ち着きます。失敗を繰り返すことも必要になるというか、避けられません。ものごとには時間を必要とするタイミングがあるのだと思います。
色味について。全身を3色でまとめるように意識してみると随分変わると思います。靴やバッグも含めて3色です。面積の小さい部分などに4色目を足すこともありだと思います。逆に、2色や、ましてや1色だと尖って見えるので、一般的には3色が適切だと思います。その3色の中でも、あまり主役となりすぎる色を選ばない方がまとまりはつくりやすいです。赤や黄色などの主張の強い色よりも、白やグレイ、赤系を使うにしても少し暗さのある臙脂など、全体のバランスを揃えることを意識するとよいと思います。それら3色の関係性をかたちづくることまで意識してグラデーションをつくったりすることができるとよりきれいにまとまると思います。
以上、2点は様々な人によってそれぞれに言い古されて、もはや古語の領域だと思いますが、私がそこに新しいひとつを加えることも、それぞれの人は絶対的に異なる存在であってあらゆる出来事は一回性のうちにあることを考えると意味のあることだと思います。
最後に、目を培うためには、実践の数が重要です(これは私の専門の美術についても当てはまると思います)。そして、その実践の中で自分が心惹かれる対象の特徴を抽出することができれば、自分の好みを説明できるようになるので、その特徴に従って選べば着なくなるものを揃えてしまうことも少なくなると思います。ただ、母語の文法を説明できなくても話すことができるように、理由を説明できなくても好き嫌いは判断できるので、必ずしも抽象化する必要はありませんが、興味があればやってみてもよいのではないかと思います。私は、いくつかファッションスナップを載せているウェブサイトを巡って、気になる写真を保存して定期的に整理をすることで自分の好みが見えてくると感じています。ある程度のまとまった量を集中的に見ることで把握できることもあるのです。
以下に、参考となるサイトを載せておきます。
非常に有名なページです。ファッション関係者が中心で尖った格好が多いですが、ファッションに費やしている時間が長い人たちを見ることは勉強になると思います。すべてを真似するというよりも、エッセンスだけを受け取るようなかたちがおすすめです。男性のスーツスタイルのまとまりを重視しながらも華やかな合わせ方は参考になります。
更新頻度は高くないですが、尖鋭的なファッションを扱っている点ではおすすめです。
レディースが主ですが、非常に美しい写真を載せています。少し前の時期の写真を載せることが多いのですが、古い感じもせず、新しい物だけを追い続けていない姿勢に好感が持てます。風景のシリーズは、ゆったりとした時間が流れていて、おすすめです。モデルを美しく撮る人だと思います。
(*)しかし、目的ではなく手段として装うことはダンディズムの対極にある考え方であるとダンディズムの祖であるジョージ・ブランメルを見ているとわかります。彼は独房においても普段と寸分の違いもなく装ったと言います。それは、他人のために装う(この考え方は鷲田清一さんの著作にたびたび現れます、夏場に僧侶が、暑くなるのにもかかわらず、透け感のある衣を一枚はおり、周りに見た目の涼しさを提供したという内容です)のではなく、徹頭徹尾自分のために、そして、装うために装うということなのです(詳しくは、生田耕作『ダンディズム 栄光と悲惨』中央公論新社、1993)。歴史から学ぶことは膨大であると思います。
(**)ただ、のちに、美術史を生業としている先生に、先生の一番好きな画家は誰ですか、と、なんとなく、会話の空白のぎこちなさを埋めるためだけに尋ねたときの答えが、新しい地平を開いてくれました。それは、「いっぱい居すぎて選べない」というものでした。これこそが本当なのだと思いました。先生の専門のカンディンスキーかな、自分ならクリムトだろうか、などと考えながら訊いてみたのですが、画家にはそれぞれに良さがあって、それらを比較するためにはひとつの基準を仮に立てなければならなくて、そのような比べるためだけに立てられる基準は本質的なものではなく、まさに正解は、本当に美術に浸って生きている人の答えは、「いっぱい居すぎて選べない」であるべきなのだと、はたと気づいたのでした。そのときまで、自分が一番興味のある画家はクリムトだ、と疑いもなく思っていた自分を深く恥じたのでした。
(***)果たして個人的でない意見など存在するのでしょうか、否、というのが私の答えであって、あらゆる意見は同じ時間と場所が存在しない以上一回性を持ちますし、ある特定の人から発せられるという点で個人的なものであり、普遍性を帯びることもありますが、根本としては個人的でないものは存在しないと考えています。これは視点の問題として捉えることができて、人間は自分の視点を離れることができません。仮に離れることができる存在があったとしたら(自分の視点を離れたことを想像するときさえも自分の視点を離れることはできませんから、そもそも想像することさえできませんが)、それを私は「神」と呼びたいと思います。
(****)おそらく大学3年生くらいのとき、まだ実家に住んでいて、①サイズ感と②色味を統一すること、というおしゃれに見えるためのふたつの条件を見つけた、と母に報告したことがあったのですが、「え? そんな当然なことにいまさら気づいたの??」と言われて、自分の外では常識であったのだと知りました。ただ、これは情報として得たものではなく、実体験に基づいて、時間をかけて帰納的に気づいたものであって、知識ではなく体験であるために、より直接的に実践に繋がっています、というか、実践の一部であると言えるのです。その点で、実際に使えるものであると思うのです。